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冤罪 捜査機関の強引な見込み捜査 見立てに沿った自白の強要 殺しましたと云えば情状を酌量して執行猶予。裁判は、検事が仕切り、裁判長は云いなりになる

以下記事転載

 

gendai.ismedia.jp

不正・事件・犯罪週刊現代
 

殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白

「徳島ラジオ商殺し」過ちの全貌
 
 

かつて、裁判所が「冤罪」を作り出したことがあった。検察と連携し、無実の女性の人生を奪ったのだ。その有罪を覆し、再審を決めた元裁判官が初めて明かす、裁判所が犯した「過ち」の全貌――。

有罪のまま亡くなった女性

1980年代は、日本の裁判所が厳しい批判にさらされた時代であった。

「再審無罪ラッシュ」と言われるほど、死刑確定囚や重罪で獄に繋がれていた人達への無罪判決が相次いだからだ。裏を返せば、それまで無辜の民を罰し続けていたことになる。

いったい、職業裁判官は何をしているのか。こういう批判が、澎湃と沸き起こったのである。

この時期、「冤罪無罪」となった死刑囚は、「免田事件」の免田栄ほか、「財田川事件」の谷口繁義、「松山事件」の斎藤幸夫、そして「島田事件」の赤堀政夫の4人にのぼる。

彼らは、死の淵から生還するまで27~33年にわたり、死刑執行の恐怖におびえる獄中生活を強いられていた。

そして「夫殺し」の濡れ衣を着せられた「徳島ラジオ商事件」の冨士茂子もまた、1985年7月、逮捕から31年目にしてようやく再審裁判で無罪判決を得た。

冨士茂子は「第五次再審請求」を申し立てたのち、腎臓がんの悪化から心神喪失状態に陥ったため、親族が引き継いだ「第六次再審請求」を提出した1週間後に死去している。

その再審開始決定を受けての再審裁判で無罪判決を言い渡されたのは茂子の死亡から6年後。ようやく雪がれた「冤罪」だった。

最高裁判事の谷口正孝は、『裁判について考える』のなかで、「冤罪」は、捜査機関の強引な見込み捜査と、その見立てに沿った自白の強要など、「捜査構造の歪みにその原因を求めるのが一般」であると述べている。

だが、こと「徳島ラジオ商事件」に限っては、事情が違っていた。

冨士茂子の「第六次再審請求審」で主任裁判官を務め、「再審開始決定書」を書いた秋山賢三(76歳)は、自宅居間のテーブルで当時の裁判資料を紐解きながら、おもむろに口を切った。

「わたしも、もう、そんなに余命があるわけじゃありませんので、洗いざらい話してみようと思っているんです。これはね、あなたにはじめて言うことだけど、この事件は、裁判官の常識では考えられない不可思議な審理が数多くなされていたんです」

「冤罪」を確信した

その「不可思議な審理」への考察を重ねながら、秋山は、裁判長の安藝保壽と任官2年目の細井正弘裁判官との裁判体で再審請求審の審理にあたった。

裁判長の安藝は、もともと徳島県の出身。3人の姉に囲まれて育った末っ子で、芯は強かったが出世欲の乏しい人だった。

冨士茂子の裁判がはじまってすぐの頃に徳島地裁に赴任。公判過程を裁判官として注視しており、この事件は「冤罪」との疑問を抱いていたという。

秋山は、約3ヵ月かけて訴訟資料を読み込んだのち、1978年7月のある日の夕刻、裁判所近くのデパート屋上のビヤホールで、安藝裁判長らとの最初の意見交換をおこなった。

当時を回想して秋山は、「あの日は、本当に楽しかった」と語った。

「安藝さんから、この事件どうしようと振られたので、これは冤罪ですから、なんとかいい開始決定をしましょう。ただ、マスコミが煩いから、できるだけ迅速に進めましょうと言ったら、安藝さん、ものすごく嬉しそうな顔をしてね。

ビールで乾杯したあと、飲みなおそうと言うので、いったん、荷物を置きに裁判所の官舎に帰ってからタクシーで繁華街に繰り出した。行きつけの店を3~4軒梯子しましたかね。飲みながら、やろうな、ということを何度も話し合ったものです」

この日の話し合いから2年半後、再審開始決定が言い渡されている。

秋山は「再審開始決定書」のなかで、検察が、茂子を有罪とした「決定的な決め手」は「全て虚構であった」と断罪した。

「徳島ラジオ商事件」は、ラジオがまだ高額電気商品だった戦後のはじめ、いち早く月賦販売制を取り入れ事業を拡大してきた三枝亀三郎(当時50歳)の社屋兼住居に、何者かが侵入。

内縁関係にあった冨士茂子(当時43歳)と、ふたりの間にもうけた娘(当時9歳)とともに寝ていた寝室に踏み込み、亀三郎を刺殺したというものだった。

「裁判長は云いなり」

当初、警察は、亀三郎の布団のシーツに残されていた土足の靴跡(ラバー・シューズ)などから、「外部犯人説」を取り、約1年にわたって捜査。地元のヤクザふたりを逮捕するが、起訴には持ち込めなかった。

犯行を裏付ける決定的証拠がなかったうえ、ひとりはヒロポン中毒で証言能力がなく、もうひとりは頑強に否認を貫いたからだった。

地元紙が「迷宮入り」を報じるなか、「強気の田辺」と異名をとった徳島地検の田辺光夫検事正が、警察に替わって捜査を指揮することになった。

地検のトップである田辺は、「無能な警察に替わって犯人を挙げてみせる」と大見得を切っていたという。

司法修習を終えたばかりの村上善美検事を中心に、数名の検事と検察事務官で特別捜査班を編成。驚くほど「突飛な発想」で、茂子を犯人と想定した「内部犯行説」による捜査を開始している。

地検の見立ては、10年以上生活を共にし、実子までもうけているのに籍を入れてもらえない茂子の不安と不満が、犯行の動機で、凶器の刺身包丁は、茂子が、住み込み店員に命じて橋の上から川に捨てさせたうえ、外部犯行を装うため、電灯線と電話線をも切断させた。

そして、現場に残されていた匕首は、事件前に茂子の指示で住み込み店員がヤクザの組事務所から借りてきたというものだった。

確たる根拠があってのことではなく、これらの憶測を住み込み店員の供述で裏付けられれば、事件を解決できるという、信じがたい捜査方針だった。

実際、特別捜査班は、住み込み店員のひとり(当時17歳)を45日間勾留し、もうひとり(当時16歳)は27日間勾留。先の荒唐無稽なストーリー通りの供述をさせている。

検察官から、少年店員の供述を聞かされ、「お前が殺さんと誰が殺すか」と責められた時の心境を茂子は、獄中手記に残している。

「『包丁を捨ててくれ』とか『電線を切ってくれ』とか、そんなことを頼んでわからずにすむと想うほどの私は馬鹿かしら」

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過酷な取り調べを受けながらも、「私こそ真の被害者」と否認を貫いていた茂子に検事はこう言った。

「お前は裁判のやり方を全然知らないなあ――。教えてやろうか」「殺しましたと云えば……情状を酌量して執行猶予をやるわ。裁判と云うものはなあ、検事がこうだと定めたら、裁判長は大方云いなりになるものだ。

お前がいくら声を大に叫んでみても、検事が『夫殺し』だと決めたら、お前の友達も近所の人達も、ああやっぱり茂子が殺したのかと納得し、得心するのが人情だ」

地検としては、警察に啖呵を切っていた以上、どうしても茂子を犯人に仕立て上げ、早期に事件を解決する必要があった。外堀を埋めるための、巧妙に計算された演出まで行っていたのである。

橋の上から川に凶器を捨てたとの店員の供述を公表し、大がかりな川ざらえを行なっていたのだ。

地元紙の徳島新聞は、川ざらえの様子をこう報じた。

「事件のキメ手とみられる凶器の刺身包丁を茂子の指図で両国橋から新町川に捨てたとの元同店員の自供にもとづき、潜水夫を川底にもぐらせ、午後から県警本部の応援を求めて水中探査機を持出し、約7時間にわたり水中探索を続けたが、出てきたものはパチンコ玉、火バシ、ナイフばかりで、ついに期待された凶器は発見されず」(1954年8月27日付)

検察に協力した裁判所

もともと、この店員の供述は、検事に強要されての「虚偽の供述」だった。端から、凶器が出ないことを承知で、地検は、適正な捜査をしていることを世間に印象づけようとしたのである。

秋山の「再審開始決定書」は、この点にも触れ、「刺身包丁を新町川に投棄したとの(住み込み店員の)証言は、同人が投棄したと指示する場所を川ざらえしても発見できなかったことが既に第一、二審の段階で明らかであり」「(住み込み店員の)第一、二審証言が虚偽であったことを示している」

しかし、なぜ、裏付けのない泡沫のような店員の「供述」が、「茂子有罪の決定的支柱」となりえたのか。

この疑問に対し、秋山はこう解説した。

「種明かしをすると、検察官は、ふたりの住み込み店員から自分たちの描いたストーリー通りの供述調書を取るや、ただちに裁判所に依頼して、同じ内容の供述調書を取ってもらっていた。

だからふたりの少年は、法廷で、裁判官に取られた『裁判官面前調書』通りの証言をしているのです。

裁判官に取られた調書が、法廷証言のシナリオの役割を果たしていて、彼らの法廷証言は『動かぬ証拠』となった。捜査段階での供述調書を採用しなくても有罪にできたんです」

「裁判官面前調書」は、「任意の供述をした者が、公判期日においては前にした供述と異なる供述をするおそれがあり、かつ、その者の供述が犯罪の証明に欠くことができないと認められる場合には、……検察官は、裁判官にその者の証人尋問を請求することができる」との法令を根拠としている(刑訴法227条)。

元東京高裁裁判長は、大きなため息とともに、こう語った。

「これを使ったんだ。この条文は、滅多に使わないごくごく例外的な規定ですよ。供述変更もあるけど、法廷を待っていたんでは証言できなくなる病状の人だってありうるからね。

取り調べとして聞くんじゃなくて、裁判長が双方の立場に立って、公平に証言を取るという主旨。だから、できれば弁護人もつけて公平に聞く。正確な証言を残しておくという主旨であって、捜査の調書の内容を固めるために使うという主旨じゃない」

しかし、当時の徳島地・家裁のほとんどの裁判官が動員され、検察のストーリーに沿った「裁判官面前調書」が作成されていたのである。ある意味、捜査の片棒を担がされていたといえよう。

裁判がはじまるや、「冤罪」を作り出す捜査に自らが手を染めてしまったことに気づいた裁判官もいたはずだ。だが、後戻りはできない。無理やりにでも有罪判決を書かなければならない、との心境に陥ったのではないだろうか。

そんな裁判官の存在を視野に入れてか、「再審決定書」は、地裁と高裁の判決を痛烈に批判している。

「茂子有罪の心証はゆるがないとした……第一、二審の事実認定と証拠説示は、厳密に証拠に基き、それらを論理法則、経験法則に従って正しく評価するべき本来の事実認定の方法論とは相容れないものである」

真実を貫いた「その後」

実際、地裁、高裁が証拠として採用した「確定記録」のひとつ、「実況見分調書」の中には「三四葉の写真を添付した」との記載がある。しかし現実には「二八葉」しか添付されていなかった。

この不可思議を、冨士茂子を有罪と認定した裁判官の誰ひとりとして指摘していない。

だが、再審請求審の段階になって、検察側は、それまで法廷に出してこなかった「不提出記録」22冊を開示。そのなかには、外部犯行説を裏付ける布団のシーツの上に残されたラバー・シューズの靴跡が明確に認められる写真が数枚あった。

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秋山は言う。

「誰が剥がしたのかはわかりませんが、もし、これらの写真が一審段階で裁判所に提出されていれば、茂子さんが犯人であるとする根拠は雲散霧消していたでしょう」

「再審開始決定書」は、こう締めくくられている。「(再審請求審で審理した)新旧証拠の総合評価を経た結果、三枝亀三郎殺害事件の真犯人は亡冨士茂子である旨断定した確定判決に対し、亡冨士茂子は無実であることが明らかな証拠が新たに存在するに至ったというに充分である」「本件につき、再審を開始することとしなければならない」

「裁判の理由は真実に沿わなければならない」とした法格言が、ようやく実践されたことになる。

「こんなひどいことをやってはいけない」

こう語気を強めて、秋山は語った。

「冨士茂子さんだけでなく、偽証を強いられたふたりの少年店員も、検察官によって不幸な役目を背負わされ、干天の熱砂の中をその重みに耐えながらひたすら歩くしかない可哀想なラクダのような人生を過ごすことになった。

その罪深い捜査と、真実探求の情熱を欠き公正な判断をしなかった裁判の実態を、後世に残すため、私はこの決定書の中に一審、二審判決の不合理な判断や不適正な証拠評価をぜんぶ引用したんです」

再審決定から11年後、秋山は依願退官し弁護士への転身をはかっている。

また、裁判長の安藝は、定年の1年前、福岡高裁宮崎支部長を最後に依願退職した。再審決定を下したことで、その能力に見合った処遇を受けられなかったと言われている。

しかしこの決定書は、「死刑冤罪無罪判決」とともに最高裁に与えた影響は少なくなかった。裁判員制度導入の引き金のひとつになっているからだ。

(文中敬称略・以下次号)

岩瀬達哉(いわせ・たつや)
55年、和歌山県生まれ。'04年『年金大崩壊』『年金の悲劇』講談社ノンフィクション賞を受賞した。その他著書多数

週刊現代」2018年3月10日号より